第一節 通俗の用例

無用の論争を避くる爲めに、用語の意義を明かにして置くことは望ましいが、さりとて餘り窮屈な定義に囚はれ、強いて事實を之れに引付けやうとするのは、私の探らざる所である。只通貨と云ふときは何を意味するかを、大體思ひ違ひのないやうに押さへて置かねばならぬ。さうして其意味は世間の用例に成るべく広く適合するものを採って置きたい。

通貨とは經濟上の論議に於て頻繁に用ゐられるけれども、元来日常の生活に於て使はれる日本の俗語若しくは商用語ではない。私は實際生活に重きを置き、世間の用例に適合する意味を求めるのであるから、通貨に該當する俗語若しくは商用語は何かと云ふことを先づ考へて見なければならぬ。「かね」と云ふのが、即ちそれであらう。「かね」と云ふ言葉には、種々の使ひ方があつて、「かね持」とか「かね儲け」とか云ふときは、富若しくは財貨、又六かしく云へば一切の経済價値を有するものを意味するやうであるが、「かねを支拂ふ」と云ふ如き場合には、経済上の論議に於て云ふ所の通貨と同義であるやうに思はれる。そこで此場合に「かね」と云ふ時は、何を意味するかと検討して見るに、租税の上納、買物の代金、労務の報酬、債務の辨濟、其他支拂決濟の爲めに一般に授受される物、殊に受取者の側に於て一般に認諾する物と云ったならば、大抵通俗の用例に當てはまるだらうかと思ふ。之れを括約して一般の支拂手段として通用する物と云っても宜しからう。私は此通俗の「かね」と云ふ言葉の意味で通貨と云ふ言葉を用ゐることにしたい。是れは通貨が如何なる物質から成立つか、如何なる條件によりて成立つか、價値観念の上から通貨を如何に思料するかと云ふやうな問題を差措き、先づ實際生活に於ける通貨の作用を観察して、此方面から通貨の意義を捕捉せんとするのである。所謂學理的の定義の内にも、同様の見地から出たのがあると思はれる。厳格なる定義としては、共の見地に就ても、其の言ひ表はし方に就ても、論議の餘地があるかも知れぬが私の考察の爲めには、只大摺かみに用語の意義を指示し得れば足れりとする。

貨幣といふ言葉は、種々の意義に用ゐられる。普通には通貨と略同じ意義と、鑄造されたる硬貨といふ狭き意義とに使はれることが最も多いやうに思はれるが、外學説上の見地から興へられた種々の意義もあるやうだ。是等種々の異なりたる使ひ方から少なからざる混雑を起すことがあるけれども、假合其の混雑を避ける爲めに、考察上都合の好意義を勝手に定めても、一般に其の理解を徹せしむることを望み難い。之れに較べると通貨といふ言葉の使ひ方は、それ程紛糾して居らぬから、私はどちらでも好い場合には貨幣といふ言葉を使はないで、通貨といふ言葉を使ふことにしたのである。若し特に貨幣とい言葉を用ゐるの必要があるときは、意義の混雑を起さぬやうに注意するであらう。さうして鋳造されたる硬貨を意味するときは、略して貨と云ふこととする。

第二節 通貨の種類

前に説明した通貨の意義、即ち私がの通念と看做す所の考へ方に從へば、通貨は必ずしも鑄貨に限らぬ。必ずしも金の如き其自身に於て財貨としての實價を有する物にも限らぬ。尚又必ずしも金属の如き有價物と確實に交換せらる物とも限らぬ。「かね」又は貨と云ふ言葉の語源の示す如く、通貨は其の起源に於て金属其他の實價ある物から成立ったのであらう。金屬其自身を欲求するが故に、他の財貨を以て之れと交換し、更らに他の財貨を一層必要とするに至つて、金属を之れと交換したのが、金属を一般の支拂に使用するの起源であったらう。即ち地金としての效用が通貨の基礎であったらう。然しながら永く通貨の使用に慣れた經濟組織の下に於て、金貨で支拂を受けるのは、通常其れの含有する地金を欲求するが爲めにあらずして、金貨を以て他の財貨を買得るが爲めである。即ち地金としての効用以外に、通貨としての効用が發生して居る。金貨、銀貨等に兌換せらるべき紙幣(銀行券を含む以下倣之)を受取る場合に於ても通常之れを兌換せんとするのではなく、只一般の支拂に通用するが故にこれを受取るのである。それだから兌換が停止されても必ずしも紙幣の流通に故障を生じない。金屬の如き有物を代表せざる不換紙幣が一般の支拂に通用した例は頗る多い。維新後の我國に於て、明治十九年に紙幣と銀貨との交換が開始せらるゝまでは、不換紙幣流通の期間が多くあった。歐米諸國にも古く不換紙幣の歴史があり、近くは、世界戦争中から世人の記憶に新たなる不換紙幣の實験がある。不換紙幣は濫發の極、通貨の機能を失ふ。即ち獨逸では一九二四年の幣制改革以前、従来の紙幣を以て物を買ふことが困難なるに至つた。然しながら如何に價値は下っても、荀も一般の支拂に通用する限り、之を通貨にあらずと云ふのは、社會の通念に合致せぬであらう。其自身に於て實價を有せず、又金屬の如き有價物と交換せられざる物でも通貨たり得ると云ふことは、特に力を入れて論究するの價値なき程、明かである様に思はれる。尤も此の考へ方から直に金本位無用論に飛ぶのは、許さるべきことでない。通貨は金本位の場合の如く、貴金屬又は其の代表物から成立たせる方が好いか、それとも通貨が貴金屬の量によりて支配されない様に、貴金属の絆を離れ、合理的に構成する方が好いか。是れは別に考慮しなければならぬ。さうして立法上及び政策上の重要なる問題なのである。一般の支拂に通用するの事實があれば、通貨の機能は成立して居るけれども、其の通用の根據如何は、立法者及び通貨調節の任に當るもの深く思を致さゞるべからざる所である。通貨とは何かと云ふ問題と、如何なる通貨が好いかと云ふ問題との間には、混同すべからざる區別がある。此事は荷後に詳論するであらうが、先以て間違ひなく了解して置かねばならぬ。前者は一般的に考を立てることが出来るが、後者は主として國により、時の事情に應じて判断しなければならぬと私は思ふ。

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次ぎに尋ねて見るべきは、具體的に如何なる物が通貨として用ゐられるかと云ふ實状の問題である。古代に在っては、貝殻や家畜なども通貨の作用をしたと傅へられて居るが、何と言っても最もく使はれて来たのは金属であるに違ひない。金属は鑄造されたのが最も便利であるけれども、國家の統制の充分緊密ならざる場合には、不便ながら地金の秤量取引によって支拂の決済を行ふことになるであらう。然しながら現代多数の國家に於て、現實に存在し、さうして躊躇なく通貨として認めらるべき物は、固定の鑄貨と、政府の發行する紙幣と、國家の賦興せる特権に基く所の銀行券とである。通貨は法によって制定された物に限ると断定するのは、一般的の考へ方としては、狭きに失するだらうが、統制の緊密なる現代國家の實状としては、大體其の當を得て居るやうに思はれる。

鑄貨は本位貨たると補助貨たるとを問はず、紙幣は兌換と不換とを間はず、法制上又は實際上それぞれの條件に従つて通貨たることに差支ない。日本銀行の營業毎週報告に通貨及地金銀と云ふ科目があつて(註:現在は「現金及地金」と改稱されてゐる。)、其の通貨の内には金貨、補助貨及び政府の發行せる小額紙幣だけを含み、日本銀行の發行する銀行券を含んで居らぬが、それは日本銀行券を通貨と看做さゞるの意味と解すべきでない。日本銀行券は世間に出でゝ始めて通貨となるので、日本銀行の内に在っては只の紙片たるに過ぎぬ。随つて他の銀行、會社等の貸借對照表に於ては、資産側の科目、例へば現金の内に日本銀行券を入れるのが當然だが、日本銀行の資産科目たる通貨及地金銀の内に日本銀行券を計上すべき謂はれがないのである。さうして世間に出でゝ居る日本銀行券は、日本銀行の債務科目たる兌換銀行券發行高に計上してある。英蘭銀行の如きは、發行部と營業部とを區別して貸借對照表を作るから、其の發行に係る銀行券は發行部の債務であり、發行されたる銀行券の内、營業部の保有するものは、營業部の資産である。随って營業部の資産側の科目に自行の銀行券を含ませて居る。然しながら日本銀行は發行部と營業部とを區別せざる計算方法を採つて居るので、營業報告の外に兌換銀行券發行高毎週平均高報告と云ふものを出すけれども、それは營業報告から獨立せる内容を有するのではなく、只兌換券發行の状況を、稍々異なりたる形で詳しく表示するに過ぎぬ。英蘭銀行と日本銀行とが、貸借對照表の上で、自行銀行券の取扱方を異にするのは、此の理由によるのである。

第三節 通貨の代用

小切手は銀行取引の發達せる國に於て、支拂の手段として、随分廣く使用せられるから、其理由を以て小切手、若しくはこれを振出すの源泉たる銀行預金を通貨と看做す人もある。或は此考へ方に従ふのを便宜とする場合もあらう。然しながら小切手の授受は、鑄貨及び紙幣の如く、地金の價値、固定の制度又は其の發行者に對する一般社會の信用に基くのでなく、互に信用ある特定の當事者の間に行はれるのであつて、其習慣の最も發達せる英国に於てさへも通用の範囲が広いだけで、一般に授受されるとは云ひ難いやうである。倫敦の真中に於ても、未知の人の小切手が支拂の決済に故障なく受理されるのではない。或る銀行の支配人が其店の向側の時計屋に小切手で支拂を爲さんとして拒絶されたと云ふ話もある。且つ小切手を授受するときの心持は、どうも鑄貨又は紙幣を授受するときと違って居るやうである。鑄貨又は紙幣を授受すれば、それで取引の結了を告げるのであるが、小切手の授受は更らにこれを以て支拂銀行から鑄貨又は紙幣を受取るとか、或は之れを受取者の取引銀行に振込み、支拂銀行に對して決済を求めしむるとか云ふことが、必然像想されて居る。小切手の授受は中間行爲に過ぎない。兌換券も鑄貨又はこれに相當する地金と交換せらるべき性質のものであるが、前にも述べたやうに、兌換券を受取るときには、通常之れを兌換することを想して居らぬから、小切手と其趣を異にする。随て鑄貨及び紙幣と小切手又は其の源泉たる銀行預金とを同列に置き、之れを一括して通貨と総称するのは、或は徒らに思想の混雑を醸すかも知れぬ。殊に我國の現状に於て、小切手又は其の源泉たる銀行預金を通貨と看做すのは、通俗の考へ方に適合せぬやうに思はれる。故に私は小切手を通貨と看做さず、只通貨授受の便法並に實際通貨を授受せして通貨の勘定を決済するの方法と看做して置くことゝする。

尤も小切手の使用及び其の源泉たる銀行預金が通貨と密接の關係を持つことは疑を容れぬ。小切手使用の有無及び其の程度により、一社會の必要とする通貨の量は大に異なるであらう。小切手の使用により通貨の需要が節約せらると同時に、小切手支拂の爲めに必要なることあるべき通貨を供給するの準備もなくてはならぬ。何れにしても、小切手の使用は現代の金融組織に於ける重き要素であるから、通貨調節の問題を考察するに當つて、鑄貨及び紙幣と併せて之れを對象としなければならぬことは勿論である。

左れば小切手又は其の源泉たる銀行預金を通貨と看做すのが、安當だとか便宜だとか思惟する人があるならば、私は強いて其考へ方を排斥するの必要を認めぬ。各自執る所にて終始一貫其の意味を紛糾せしめざる様に注意すべきのみである。特に銀行通貨、預金通貨、私製通貨等の名稱を用ゐて、普通の通貨と混同せざるやうにするならば其れでも差支ない。是れは金地金を國際通貨と稱するが如きときの使ひ方と同様である。私も場合により預金通貨及國際通貨と云ふ言葉を用ゐるかも知れぬが、單に通貨と云ふときは國內通貨に限り、さうして小切手又は其の源泉たる銀行預金を含まざるの意味を以てすることに定めて置く。